と言われるのは、おそらく「お前はどうしようもない人間だ」と根底から人格を否定されているような気になるんだと思う。
以前、関心を持って調べたことのある ADHD という
「注意力・衝動性・多動性を自分で完全にはコントロールできない脳神経学的な疾患」
についてちょっと振り返ってみる。
「他の人なら普通にできることができない」と一番感じているのは、おそらく本人自身だろうと思う。
痛切に感じていると思う。
「なんで出来ないの?」という問い、もしくは責めは、足の不自由な人に向かって、
「なんでちゃんと歩かないの?みんなちゃんと歩いてるんだから、君も普通に歩いてよ。」
と言っているのと同じことになるだろう。
ADHD の人はある方面で才能を持っている場合が非常に多い。
あくまでたとえだが、足は悪くても手がとても器用で、洋服のデザインを発想したり描いたり製品化したりすることに秀でていたりする。
このような場合、洋服デザイナーという職業は本人にとってもはや生活の単なる手段以上のものと位置づけられることになるはずだ。
それは、自己実現そのものになるのではないだろうか。
仕事というのは多かれ少なかれそういった意味を含んではいるが、
足が悪いという自覚があるだけに、手が器用であることを是が非でも証明したいという思いに(強く)駆られると思う。
そして重要なことは、それを他者から認められることだろう。
「認められること」を強く、というより切実に求めているはずだ。
働いた結果を認められたり、賞賛されたり、御礼を言われたりするということは、人格を認められることと同義になるのだと思う。
中学生がお小遣い欲しさにちょっとアルバイトでお金を稼ぎたいということとは全く別の次元がそこにはある。
そして、繰り返すが、そのことが ADHD な人にとっては圧倒的に重要なことだ、ということだ。
周囲にいる人はここに留意する必要がある。
足の悪い人に対して、
「普通に歩きなさい」と言ってはならない。
相手を徹底的に馬鹿にすることになるから。
「なんで普通に歩かないんだろ」と思ってはならない。
あなたが他人の目を見て自分に対するその他人の感情を推測できるように、ADHD な人はあなたの感情を敏感に察知するだろうから。
それは理不尽な無理解を相手に伝えているのと同じことだろう。
「徹底的に馬鹿にされ、理解もされない」
このように感じたら、人はどのように行動するだろうか。
「徹底的に馬鹿にし、理解しようとしない」
のではないだろうか。
であるから、
「徹底的に馬鹿にされ、理解もされない」
このように感じたら、
「徹底的に馬鹿にし、理解しようとしない」
ということを自分が先にやってこなかったかどうか、という検証をしてみるのが良いと思う。
この場合、重要なのは、
「普通に考えて自分のほうが正しい」
という発想をするのは不毛だ、ということ。
「普通でない」としても、わざとではない。
先の例のように足の悪い人に「ちゃんと歩きなさい」という人はいないだろうが、
目に見えない疾患を背負っている人は大勢いる。
たとえば、心臓にペースメーカーを入れてる人の傍で携帯を使ってはいけない。
知らなければ「なんて我侭なことを言うやつだ」と腹を立てても仕方ないだろう。
しかし、そのことを知っているのに、「早く治してよ」とか「不便で困るんだよね」とか言う人が果たしているものだろうか?
自らに対する不便さに最も歯がゆい思いをしているのは本人なのだ、と「信じる」ことが一番大切なように思う。
そこに条件をつけてはいけない。
「あれをしなかったら」とか「こうしたら」とか。
人はしばしば服のボタンを掛け違う。
最初のボタンの掛け違いにまず気づかないと、途中のボタンをいくら直そうとしても元には戻らない。
ADHD な人はおそらく他者との距離をとるのが上手ではないと思う。
結果として生活のしづらさが付き纏うことだろう。
周囲には、それをカバーする具体的な対策が必要と思う。
たとえば身内などに遠慮なく堂々と応援を要請する。
日常的作業に工夫を凝らして利便性(効率性)を図る。
などなど。
ADHD な人は怠惰であると誤解されることが多い。
しかし、「わざとではない」と信用できるかどうか。
ということに結局なるのだと思う。
月並みだが、この信用という土台の上に初めて家も建つ。
「こうであれば信用する」「こうであれば信用しない」と言っているうちは「信用」の意味を知らないのと同じことになる。
「信用」というのは何でもかんでも目をつぶることではないはずだ。
指摘すべき点は指摘すればいい。
ただ、どのような気持ちでADHD な相手を自分が見ているのか、ということをまず検証してからでなくては、不毛のやりとりになってしまう。
指摘すべきは指摘すると同時に、指摘されるべきことは指摘される。
という姿勢が必要になるわけだが、
絡まった糸口を、まずどのようにほぐすか、という知恵は必要になる。
糸口をほぐす古来からの方法は、ひとまずどちらかが折れるということだ。
下は、以前記事にした時の参考サイトのひとつ。
http://homepage2.nifty.com/ryantairan/anke-tokekka.htmlこんなこと言われていたら、顔見るのも声聞くのも嫌になるだろうな、と思う。
ADHD な人の周囲がみなこうだとは思わないが、やはり条件つきで相手の人格を値踏みしようとする、言う側自身が仮に同じようなことされたらとても耐えられないことを平気でやっているパターンが多いような気もする。
不便なことは補い合って、工夫して、お互いに相手のせいにしないのが共存、ということなのだと思う。
余談だが私には他人の家庭を壊すという趣味は全く無い。