先日、可能動詞についてネットで質問したり検索したりする、ちょっとした機会を得た。
結果をここにまとめておきたい。
無論、私見も混じっているが、基本的には下記4項目の他者見解に大きく依存する形になっていると思う。
文法ど素人の私が無謀に挑戦してみた結果である。
そのつもりで寛容な眼で見ていただければ幸いであるし、引き続き、そして新たにご指導を賜れるならば幸いと考える。
専門的知識をお持ちの方にとっては、噴飯ものの記述もあることだろう。
ご批判も甘受する用意がある。
文法ではあるが、むしろ人間心理的な観点からも興味を惹かれ、あえてここに記録しておきたい気になった次第である。
(ア)ウイキの記述。
『「行かれる」のような「〜れる・られる」の形は、古語の「〜る・らる」の形から変化したものだが、「行ける」のような可能動詞はそれとの関係は不明である。
由来には大きく2説があり、「知るる(知れる)」等からの類推で、従来からあった四段(後に五段)活用動詞に対する下二段(後に下一段)段活用の自発動詞が一般化した(類似の動詞の項を参照)という説[1]と、
「行き得(る)」のような「連用形+得(る)」の表現が変化したという説[2]とがある。』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%AF%E8%83%BD%E5%8B%95%E8%A9%9E(イ)拙質問に対する xianching さんの回答
『受身、尊敬、自発には、主体の積極的意志が感じられません。
「れる・られる」には4つの意味あると言っても、一つの言葉ですから、「れる・られる」の可能表現でも、可能以外の「受身、尊敬、自発」に引っ張られることがあってもよいと思います。』
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6524818.html(#16)
(ウ)拙質問に対する momordica さんの回答(a)
『Wikipedia「秋田弁」より抜粋
> 可能態
>
> 秋田方言の可能の形式には、動作の主体の持つ能力によって行為が可能である
> 「能力可能」と、動作の主体を取り巻く状況によって行為が可能である「状況可能」
> の区別が見られることが特徴的である。』
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6537930.html(#2)
(エ)拙質問に対する momordica さんの回答(b)
『Wikipedia等の記載を信じるなら、両者の発生時期には数百年のずれがあります。
質問者さんのおっしゃるような形で両者が発生したなら、それらの時期に大きなずれが
生じることに合理的な説明ができるとは思えません。
また、何らかの理由で最初に五段動詞の可能形のみが広まって、後からら抜き言葉が
できたなら、その成立時期においては可能動詞の成立過程がどういうものであったか
ということ自体が失われてしまっていたはずです。(現在定説がないくらいですから)
したがって、その数百年前に失われたのと全く同じ経過をたどって言葉が変化するとは
考えにくいと思います。
やはり、ら抜き言葉は、当時既に成立済みだったラ行五段活用動詞の可能動詞からの
類推であったと考える方が妥当だと思います。』
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6538133.html(#2)
以上4点は、以下に示す私見のきっかけでもあると同時に 重要な骨格となっている。
1.五段活用における可能動詞は、「連用形+得(る)」の表現が変化したものである。
(ex1)・休む(YASUMU)→休み得る(YASUM[ I ]ERU)→休める(YASUMERU)
『「知るる(知れる)」等からの類推で、従来からあった四段(後に五段)活用動詞に対する下二段(後に下一段)段活用の自発動詞が一般化した(類似の動詞の項を参照)』
という[ウィキ説1]には、可能態を特化する必然性が見あたらない。
あくまで、「連用形+得(る)」という[ウィキ説2]が妥当な解釈と思われる。
[i]の脱落は発声時の生理的便宜上と捉える。
2.
(ex2)・休む(YASUMU)→休まれる(YASUM-AR-ERU)→休める(YASUMERU)
の、AR が脱落したものという解釈も散見されるが、これは「得る」が語の意味的に可能用法を特化しようとする明白さを持っていることを思えば、その論拠には曖昧性が付き纏わざるを得ない。
また、この AR説では、momordica氏の指摘にもあるように、
・食べる(TABERU)→食べられる(TABER-AR-ERU)→食べれる(TABERERU)
という下一段(他、上一段など)動詞の可能用法(いわゆるラ抜き言葉)が、可能動詞として、なぜ同時発生しなかったのか、という点を論理的に説明することができなくなる。
因みに、ウィキによれば、五段の可能動詞(休まれる)は室町時代、ラ抜き言葉(食べれる)は大正時代に発生したようだ。
ラ抜き言葉に関しては、さらに後述する。
3.
1.2.に挙げたように、「休む」には「休まれる」と「休める」という2種類の可能用法がある。
どちらが先かは言語学者の説を待ちたいが、同じ可能用法でもそれぞれ異なる用法がある、と考えることができる。
「る・らる」から転化した「れる・られる」は本来自発の用法から始まったとされていて、
「休まれる」は、自発・受身・尊敬・可能という4つの意味を兼ね備えている。
つまり、可能用法としての「休まれる」は、xianching 氏が指摘したように、「自発・受身・尊敬」を限りなく引きずっている、という推理が可能になるだろう。
すべて自発を母体にしてはいるものの、「自発・受身・尊敬」と「可能」には大きな違いがある。
「可能」は、「動詞行為の対象」ではなく「動詞行為者としての主体の能力」に着目する意図が存在している、ということだ。
「休まれる」は「自発・受身・尊敬」を引きずっているため「動詞行為の対象」に、まだ重心が掛かった表現である。
しかし、「得る」によって特化された「休める」は、「動詞行為者としての主体の能力」に重心がほぼ移動した、と捉えることが妥当だろう。
(ex3)
「わかりやすい道だから子供でも行けるだろう」
は、
「子供でも行くという行為が可能だ」というニュアンスで、
「行く」という行為の主体である「子供」(の可能性)に着目した主体重視の表現。
これに対して、
「わかりやすい道だから子供でも行かれるだろう」
は、
「子供でも行くことが可能な、そんな状態の道だ」という、行く行為と対象になっている「道」の状態に着目したニュアンス。
4.
このように「連用形+得る」としての「休める」は、主体重視の欲求から発生した表現と言える。
主体重視とは主に自分重視であるから、この欲求が人に兆すのはごく自然であり、つまり、押さえることのできない本能的な欲求と捉えることも可能になるだろう。
このことは同時に「休まれる」という対象重視の用法も厳然と存在していること、且つ、それが自然であることの証明にもなっている。
この意味で、主体重視の「休める」と対象重視の「休まれる」は、(シチュエーション把握の問題が関わってくるため)明確とまでは言わないが、使い分けられるのが妥当だろうと思う。
少なくとも、室町期においては、全国的に浸透していた用法と捉えるのが自然である。
ただ、一方、現代社会においては、使い分けが為されていない地方が(おそらく)多いような感触も得られた。
ただ、「休まれる」を方言と捉えるか否かは、方言の定義を知らない私にとって無理であるが、仮に方言だとすれば、縷々述べてきた理由に鑑み「正統派方言」の名を冠してみたい気がする。
また、実際に使い分けをしている人が、極端に少ないとも思われない。
ただ、どちらであるかをここで問題にするつもりはない
私にその能力が無いことと合わせ、これも言語学者に委ねるべき事柄だろうと思われるので。
5.
なぜ、一部(少数という意味とは限らない)地域で使い分けが廃れた(と考えるのが自然だろう)のか、についても少し考えてみたい。
いつ頃から使われないようになったのか、に関するデータが無いので何とも言えないが、おそらくラ抜き言葉の出現と通底する理由があるような気がする。
まず、ラ抜き言葉の成立(と言っても良ければだが)理由から考えてみたい。
五段可能動詞の成立手順を踏むとすれば、
・食べる(TABERU)→食べ得る(TABE-ERU)→食べる(TABERU)
と、momordica 氏が指摘したように元に戻ってしまう。五段動詞の
・休む(YASUMU)→休み得る(YASUM[ I ]ERU)→休める(YASUMERU)
のようにはいかない。ここで、
・食べる(TABERU)→食べられる(TABE-RARERU)→食べれる(TABERERU)
という正当な(ただし対象重視の)可能用法と比較してみよう。
当初、主体重視の可能を表現する際には、「食べ得る」と(転化することなくそのまま)言っていたと考えることはできないだろうか。
実際に言っていなくても、そういう感覚が内在していたと考えることはできるように思う。
食べ得る(TABE-ERU)→食べる(TABERU)
では元に戻ってしまうので、「食べる」と転化してすっきりしたいのを必死で(かどうかはわからないが)堪えていた。
少なくとも、そういった無意識的な葛藤が個人の中に存在していた、と仮定してみるのは、そう乱暴なことではないだろう。
「食べ得る」と発話がなされる直前まで、この無意識領域での葛藤劇は、およそ次のような過程を(全く何の根拠もないが)経たと推測される。
・「食べる」と言えば元に戻ってしまうし、言えない。でも「休める」のように、すっきり言ってみたいなあ。
→そう言えば、「食べられる」というのは正当な可能表現として大手を振って歩いていたな。
→なんと言っても「れる・られる」は、「自発・受身・尊敬・可能」の総本山だからな。実際、いかにもそれらしい響きを持っているし。
→でも、今は主体重視のシチュエーションだから、「食べられる」ではだめで、「食べ得る」と言わなくちゃならない。
→でも常に「得る」の世話になっているのも、なんか心ぐるしいんだよね・・・。
→そうだ!食べ得る(TABE-ERU)の中に[R音]を混ぜちゃえば、らしく聞こえるんじゃないだろうか。しかも「得る」の基本形は堅持したままだから、主体重視のシチュエーションにも適合するだろう。
→E の替わりに RE を使えばいいんだ。
食べ得る(TABE-ERU)→食べれる(TABE-RERU)
う〜む。(-_-;)
なかなかいいんでないかい。(←北海道弁です)
・・・・・・・・・・・・・・。
このような過程を経て、晴れて(かどうかは不明だが)「食べれる」が誕生した。
語ればこのように長くなりますが、一瞬の感覚ですから、あっと言う間に発生したのでしょう。
つまり、構造としては、ラ抜き言葉ではなく、実はラ(R)入れ言葉だったのです!
ラ抜き言葉成立の無根拠を証明しているようなふざけた内容だとお怒りになる向きもあるでしょうが、「得る」に「R音」を加えて、「主体重視」と「(食べるという)元に戻らなくて済む」の両立を果たした、血と涙の結晶として、ラ抜きならぬラ入れ言葉が誕生したのだ、という温かい視点で見つめ直してやっていただきたいと思います。
五段の可能動詞に対抗し得る下(上)一段の可能動詞として、不動の地位を築こうと日夜奮闘する、けなげな「食べれる」や「見れる」たちがそこには居ます。
6.
ところが、この「主体重視の用法」というのは厄介で、とてもわがままだったのです。
しかし、考えてみれば自分重視の用法とも言えるので、その危険性は、当初から予測されるべきだったのでしょう。
いずれにせよ、強引とも言える手法で獲得した下(上)一段一族の可能動詞は、「食べられる」という兄弟(あるいは本家)に逆らって傍若無人の行動が目立つようになります。
シチュエーションを問わず、つまり、場所柄もわきまえず、見れる・食べれる・出れるなどをお気楽に使い始めました。
こういうことでは、世間様から白い目で見られてもやむを得ません。
(ex4)
「このテレビは、この眼鏡を描けると 3D 画像が見られるよ」
は、
「これは、そういう(3Dの)画像を見ることが可能な対象(=テレビ)」であることに重点を置きたい場合の表現。
「その眼鏡ではなくて、この眼鏡を描けると 3D 画像が見れるよ」
は、
「主体(=あなた)が、見ることが可能」であることに重点を置きたい場合の表現。
このように使い分けなければなりません。
そうすれば、眉を顰める世間の方々の目も多少なりとも和らぐ確率が高くなるでしょう。
7.
ここで e の、
なぜ「休まれる」(という使い分け)が廃れた(と考えるのが自然だろう)のか、という疑問に立ち戻ろう。
第一の理由は、ラ抜き言葉の成立経緯で見てきたように、「主体重視表現=自分重視表現」という要素が強く人の心理に影響を及ぼすためである。
「休める」のほうが安心だし、気分が良いのである。
第2の理由は、短くて済む。
2つとも実に簡単な、だからこそ一朝一夕には覆ることのない、非常に単純な、いや純粋な理由なのである。
8.
以上のことから、次のような衝撃的な!事実?が白日の元?にさらされることになるだろう。
賢明なみなさんはすでにお気づきだろうが、今まで述べてきたことから類推される、いや正当化されて不思議のない内容です。それは、
「休まれる」と「休める」の使い分けをしない理由は、ラ抜き言葉を使用したがる理由と大差ない!!!
ということである。
ですから、休まれる・休めるの使いわけを重視しない方は、少なくともラ抜き言葉を使う人の気持ちがよくわかるはずなのです、内面を探ってみれば。
しかし、ラ抜きの乱用、すなわち、適正なラ抜き(R入れ)言葉の使用に留意することこそ、可能動詞を含めたあらゆる問題を一挙に解決できる近道と私は結論づける。
9.
ラ抜きに関して最後に残る問題は、なぜ室町期ではなく大正期であったのか、という疑問だろうと思う。
これに関しては、発声の生理的便宜性の観点から見て、
[I音]の脱落よりも、
[E音]から[RE音]への転化、すなわち[R音]の追加に躊躇しなくなるまでに、それなりの期間を要した、ということだろうという推測を一応立ててみたい。
有から無への転換は易いが、無から有への転換には時間が掛かる、ということではないだろうか。