2007年06月10日

3. いじめの本質

いじめとは、
◎理解できない異質を脅威と感じる者が、排斥可能と判断した他者に対して行なう排斥行為。
◎抑圧の記憶を背負いきれない者が、支配可能と判断した他者に過去の自分を投影し支配することによって過去を清算しようとする行為。
今回はもう一歩踏み込むことができるか試してみたい。

◇◇◇1≪ 排斥の本質 ≫◇◇◇
考えてみれば、全く同じ人間というのはいないわけだから他者というのはみな異質と言っても間違いではないはずだ。
実際、いじめは多数間でも2、3人でも、複数の人間がいさえすれば発生可能だろう。
であるとすれば、「理解できない異質」とは、いじめる人間にとって必然的、あるいは積極的に求められているものなのかもしれない。
つまり、無意識による脅威の捏造である。
目的はアイデンティティの補強ではないだろうか。
自らのアイデンティティを自分だけの力で確立できなくなっている者が、理解できない異質な存在としての他者を捏造することによって、相対的に「自分自身という存在は理解できる」、すなわち間違いの無い存在だという確信を得ようとする。
異質であること、理解できないことが必ずしも排斥という欲求に直結するものではないことからも、そういったいじめる側の内面的要請がいじめの本質と考えることができる。
自力で泳げない者が、他者を足蹴にして浮かび上がろうとするのと似ているかもしれない。
自力で泳げないのは足枷が重すぎるからだ。
足枷がついていることに気づかない場合も多いだろう。
溺れてしまうわけだから、他者を足蹴にすることをやめさせても根本的な解決にはならない。
当人も含めた他の誰かが溺れることになるだろう。

ところで、早い時期からアイデンティティの確立が済んでいると明言できる人は少ないとも言える。
長い時間をかけて自分とじっくり向き合う中で獲得できるものだろう。
いじめる人間にとっての不幸は、それを性急に必要とするということかもしれない。
たとえおざなりであっても一時しのぎであっても、今、自分の立脚できる基盤を確認せずには不安で仕方がないということだ。

「理解できない異質」を短絡的に脅威と認定してしまうのが無意識だとしても、いじめの感情をフィードバックして検討できないのはやはり想像力の欠如というしかない。
排斥したいという思いが自身の足枷の存在ゆえなのだ、と気づくことはそんなに難しいことだろうか。
排斥することによって足枷はますますきつく締まることになる。
想像力があれば、異質は脅威でもなんでもないと知ることができる。
脅威でないものを排斥(足蹴に)しても手応えはないはずだ。
足蹴にした自身の力で自分がより深みにはまることになる。
たとえいじめる側の人間であっても想像力のある者は、このようにして自分のしていることの不合理をいつか悟るときがくるものと思われる。

◇◇◇2≪ 支配の本質 ≫◇◇◇

支配としてのいじめはさらに深刻ではないかという気がする。
意識的にしろそうでないにしろ「抑圧の記憶」は誰しも持っている。
しかし、他者による清算を求めるほどの抑圧はその大きさを成り代わって想像することすら難しい、という立場に私は立ちたい。
暴力などによる肉体的支配も結果的には同じことだと思うが、精神的支配が精神を歪めるのは当然の理屈だろう。
誰であっても、おぎゃあと生まれた時の精神は良くも悪くも無垢のはずだ。
抑圧とは何かといえば、これは刺激の一種と言える。
特に、完全無抵抗時代の赤ん坊から自我の芽生え始める小学校入学頃。
引き続き性的に第二次開花期を迎える思春期前期としての小学校卒業時ぐらいまで。
これらの期間はいってみれば搗き立ての餅みたいなものだから、外界の、有体に言ってしまえば親の影響はすこぶる大きい。
とはいえ、外界の刺激が全くなければ人間として生きることは難しくなるから、抑圧というよりは規制の程度が問題だということになる。
背負いきれるものかそうでないかということだ。
では、それはどのようにして区別されるのかといえば、特に難しいことではないと私は思う。
誤解を怖れずに言えば、親がどんな人間であるのかということよりも(無論、その解釈の範疇に含まれることではあるが)、親が子を物として扱うのか人として扱うのかという一点に掛かっているのではないだろうか。
子供を物として扱うというのは、子供の私物化ということだ。
自分が期待をかけたものとしての、自分が愛した結果としての子供ではなく、子供自身の独立した生を認めることができるかどうかということのように思われる。
この基本線が確立していれば、親の生き方というのは案外重要な要素ではなくなってくるだろうという気がする。
極端に言えば、溺愛だろうが、放任だろうが子供自体の逞しさが温存されていれば問題はないように思う。
支配の本質は、いじめられていた過去の情け無い自分に対する、他者を代用しての復讐ではないだろうか。

◇◇◇3≪ いじめの本質 ≫◇◇◇

総合するといじめとは、
過度の抑圧によって自己アイデンティティの確立を阻害された者が、表面的には排斥という形態をとりながら、短絡的、無意識的に異質を他者の中に捏造することによって、相対的にアイデンティティの確立を目指そうとするものである。
抑圧の程度がさらに強く記憶されている場合は、自分の受けた抑圧を他者に代替的に再現させることで過去の自分に復讐を図ろうとすることも多い。
ということになりそうだ。

そうすると、最初のきっかけとなる抑圧というものが、なぜどのようにして生まれるのか、ということが課題にならざるを得ないが、
このあたりに関しては心理的本質に絡んでくるので、カテゴリを変えて改めて述べてみたい。
いじめに関しては、カテゴリとして独立させ折に触れて考えていきたいと思っている。
 
posted by hakobulu at 14:05| Comment(0) | TrackBack(0) | いじめの心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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