2007年05月27日

1. いじめられているあなたへ

一口に「いじめ」と言葉にするのは簡単だが、いじめられている本人にしてみれば、いじめというのは非常に現実的な脅威であって自身の存在を賭けた切実な問題です。
なぜ周囲が気づいてくれないのかと藁にもすがりたい気持ちがある一方、誰にもこのいじめを解決することはできないだろうという深い絶望感にさいなまれている人も多いように思います。
児童・生徒の場合、いじめの内容はおおよそ以下のとおりです。
『悪口を言う・からかう・仲間外れ・無視・殴る・蹴る・物を隠したり汚したりする・言い掛かりをつけたり脅したりする・用事を言い付ける・嫌がること(恥ずかしいことなど)を強制する 』
大人の場合も基本的には同様でしょう。
今回は、いじめについてあなた自身が気づいていないかもしれない角度から考えることで、解決の糸口を探ってみたいと思います。
いじめから抜け出す方法に絡めて述べていきますが、いずれにしても各人が納得した方法より取れないわけですから状況に応じて使い分けていくしかないでしょう。

◇◇◇方法1≪ 毅然と無視する ≫◇◇◇

いじめを受けているという事実と、それで悩むということはまた別の問題だということに気づいて欲しいと思います。
無論、無視できないいじめもありますがそれについては後ほど述べます。
ここでは、考え方次第(視点を転換する)で事態が大きく変わることもある、ということについて述べていきます。

【悪口を言う・からかう】
他人の欠点や短所をあげつらうことですね。
あなたはこの行為自体をどう思いますか? 
嫌だと思うし憎しみもわくでしょうが、そういうことを言う人ってなんかとっても卑屈な精神、そしてちっちゃい人間だなあ、と思いませんか?
そういうことを言うときの表情は必ず歪んでいますし、もし顔が笑っていたとしても目には狂気じみたものが宿っていることにお気づきになるでしょう。
自分自身につらいことのある人がこういうことを言うんですね。
なぜかというと、自分よりもっとつらい人を作れば自分はつらくなくなると(無意識的に)勘違いしてしまうんです。
たとえば家で親にいつもいじめられていたり、または全然可愛がってもらえなかったりするような人かもしれません。
大人になっても、そういった自分の問題を他人に転嫁して解決しようとする人は実際問題として多いでしょう。
ですから、いじめをする人というのは実はとても可哀想な人だと思って間違いありません。
そんなことを言ったりするなんて後で自分が惨めになるだけに決まっているのですが、でも、その場では気づかないのでしょう。

『あなたは今、自分自身をどれほど貶めているのか気づいていないんだね。可哀想に。』
こういう思いを目の光に込めて毅然と見返してやりましょう。
あなたが悲しまなければいじめる意味がなくなります。
その上で、後は徹底的に無視します。
そんなつまらない人間にいつまでも関わっている時間がもったいないと考えるのです。
そういう人たちもいつかは自分で気づく時がくるでしょう。
たとえ気付かないとしてもそれはあなたには何の関係もありません。
その人たちの人生はその人たち自身が築いていくしかないのですから。
むしろ、あなたが毅然とした無視を行うことによってその人たちが自らの非を深く思い知るきっかけになるはずで、そういう幅広い視野で考えても「毅然と無視する」のは効果的な方法と言えます。

この場合、自分に何か原因があるのだから悪口を言われてもしかたないとか、からかわれるのも当然だなどと考えて、自分で自分を追い込んでしまう方もいますがそれは間違いです。
万一、何らかの原因があったのだとしても、悪口やからかいという手段で他人に不快な思いをさせるのは絶対的に非人間的な行為なのだ、ということを良く知っておく必要があります。
あなたがどんな場合であっても他人にそうしてはならないように、あなたも他人からそうされるいわれは全くないのだ、ということです。
いじめは理由の如何に拘らず非人間的行為だ、というのはそういう意味です。
こういう条件があればいじめても良い、などということは決してありません。
あなたが他人にしてもいけないのと同様に、他人があなたにすることも許してはいけない行為なのです。
いじめによってあなたが微動だにしていないことを相手にわからせることは、いじめを許さないひとつの方法になります。

【仲間外れ・無視】
この場合、相手方は多数になりますが全員があなたを無視したいわけではないはずです。
でも、自分が仲間はずれにされるのが怖いので表面上は他の人に同調しているというパターンが殆どでしょう。
ここが非常に大事で、表面的にはどうあれ心底あなたを無視しようという意図を持っているのは、ほんの僅かの人だということです。
とはいっても仲間はずれや無視されるという現実がなくなるわけではないので、つらいことには違いないでしょう。
では、なぜつらくなるのでしょうか。
最大の理由は他人との関わりを求めるからでしょう。
人間であれば他人との関わりを求めるのは自然ですが、あなたを無視しようとするような人たちとまで関わりを持つ必要はないんじゃないでしょうか。
無視してくれてちょうど良かったぐらいの毅然とした気持ちで無視する人を無視するのです。
そのようなつまらない仲間と表面上の付き合いができたとしても「烏合の衆」の一員になるだけなのは目に見えています。何のプラスにもなりません。
人生やるべきことはたくさんあります。
自分を磨くちょうどよいチャンスぐらいに考えて堂々としているのが一番です。
そして上辺だけの仲間を作るよりも、何か本当に打ち込めることを探してそれに一生懸命になってみてください。
違う地平での本物の出会いが必ずあなたを待ち受けているでしょう。
ひたすら孤独を我慢するということでもなく、頑なに殻に閉じこもるということでもありません。
偽物の交わりからは一旦積極的に身を引いて、自分の内面と向き合う絶好の機会と捉えるということです。
この点については、後ほど≪方法4≫でもう少し述べるつもりです。

◇◇◇方法2≪ 立ち向かう / 助けを求める ≫◇◇◇

「立ち向かう」ことが有効な場合もあります。
他人をいじめる人というのはいじめられる人の気持ちが全く理解できていないために、大したことはないだろうと軽い気持ちでやっている場合も案外あるからです。
からかわれたりした時に、
『そういうことを言われる(される)のは本当に嫌なので絶対やめてくれ』とはっきり言うことで、あっけなく止む場合もあります。
とはいっても勇気が必要なことであるには違いないですね。
でも、人生のどこかでとても大きな勇気が必要とされる場面は必ずやってきます。
そして「自分の気持ちをはっきり言えた」という経験は、間違いなく確かな自信となってあなたの以後の人生に大きな役割を果たすことになるでしょう。
難しいと考えれば確かに難しいのですが、『嫌なものは嫌』とはっきり言えるスイッチを入れることで状況が好転する場合も多いのです。
「嫌だ」と言っているのにやめてくれない場合は、すぐに他の人(大人)に助けを求めることが大事です。

【殴る・蹴る】【言い掛かりをつけたり脅したりする】など、肉体的暴力・金銭的被害・物質的被害を受けた場合も同様です。
これはイジメではなく明らかな犯罪なので、警察が対処すべき事案だという認識が必要です。
つまり、この場合の立ち向かうとは「助けを求める」ということです。
「助けを求めよう」と思い立つだけでもとても勇気のいることですが、同時にとても大事なことなのです。
もしあなたが学校で学ぶ児童・生徒で警察に言いづらければ、先生かご両親、あるいは親戚の人でもよいですが信頼できる大人にすぐに連絡しましょう。
この場合は無視していてはダメです。
たとえ相手が「冗談のつもりだよ」などといってしらばっくれても、あなたが嫌だと思えばそれはいじめなのです。
はっきりとその気持ちを大人に伝えることがとても大事です。
これは相手がどんなに身近な人であっても同じです。
たとえば、何も悪いことをしていないのにしょっちゅう殴られたり、痛いことや嫌なことをされたりしているのであれば、それがたとえ自分の親であっても立ち向かう必要があります。
決して我慢している必要はありません。

ご両親のどちらか、または親戚の人や先生が身近な大人になると思います。
担任の先生に言いづらければ保健室の先生でもいいですし、校長先生に手紙を書くという方法もあります。
最終的には警察に委ねる場合も十分考えられます。
こういった直接的被害は大人も対応しやすいものです。エスカレートしないうちに勇気を出して知らせましょう。
道で他人に殴られたり、家に泥棒に入られたら警察に連絡するのと同じことです。
放っておくと必ず同じことが繰り返されるでしょう。
変な話ですが、仮にあなたに何か原因があったとしても、法律はこういった行為は決して許さないようになっています。
子供同士の場合、【物を隠したり汚したりする】【用事を言い付ける】【嫌がること(恥ずかしいことなど)を強制する 】などというのは、かなりエスカレートした後だと思うので直接的に立ち向かうといっても難しいかもしれません。
常態化しているはずですから、考えようによっては殴る・蹴るよりさらに悪質ないじめと言えるでしょう。
「用事を言いつける」なども、断りきれないようないじめの関係がすでに築かれているはずです。
これも思い切って大人に話すことが大事です。

こわがることはありません。
そして恥ずかしさは捨てましょう。
大人というのはあなたが経験していることの何倍も恥ずかしいことをたくさん経験してきて、それでも何とか生きている人が殆どです。
あなたがどんな目に遭っていても決して驚いたりはしません。
あなたを救いたいと思っている大人は実はたくさんいるのです。
最近いじめは社会問題化しています。
仕返しなどがないようにきちんと対応してくれるはずですから、勇気を出して助けを求めてください。
気持ちを落ち着かせる手軽な手段として丹田呼吸法というものをご紹介しておきます。
やってみるとわかりますが、これはなかなか効果があるようです。
身近な大人にどうしても話しづらければ、
いじめの相談を受け付けてくれる機関が全国どこにでもあります。
教育委員会・人権相談所・児童相談所・警察本部(少年課)など他にも非常に多くの窓口が用意されています。
住所や名前を聞かれるわけではありませんから、匿名で話を聞いてもらうだけでも抜け出すヒントが得られるかもしれません。

◇◇◇方法3≪ 逃げる ≫◇◇◇

今いる場所から逃げだすという選択肢もあります。
狂犬から逃げるしかない場合もあるということです。
あなたが学校でいじめを受けていて、どうしても解決できそうになければ学校を換えるか辞めれば良いのです。
小学校や中学校は義務教育だから辞めることはできない、と思っている人もいるかもしれませんが、それは違います。
親が自分の子供を学校に行かせる義務があるという意味で、子供は学校に行く権利はありますが絶対行かなければならないと法律で決められているわけではありません。
実際的には学校によって見解が分かれているようですが、小中学校の場合、基本的には出席日数が殆どなくても卒業はできるのです。
これは文部科学省の「学校教育法施行規則」というものに基づいています。
それだからこそちゃんと学校に行かせる義務が親にはあるわけです。

学校をやめたら上の学校に行けなくなると心配する人もいるでしょうが、そんなこともありません。
中学校卒業程度認定試験というものがあり、この試験に合格すると中学校を卒業していなくても高校を受験することができます。
専門家会議の答申では、いじめによる不登校の場合も中学校卒業程度認定試験を活用するよう提言しています。
将来自分のやりたいことをするためには、高校や大学での勉強が必要になる場合が多いと思います。
しかし、高校受験のために基本的には一人で勉強することになりますからとても大変なことですし、強い意志が必要になるということは良く理解しておく必要があります。
他には、フリースクールに通うという選択肢もあるでしょう。
全国では大体三十校以上あるようです。

高校生の場合は、「高卒認定試験」(昔の「大検)」ですね)に合格すれば大学を受験することができます。
以前と大きく変わったのは、在学したままでも受験できるようになったことでしょう。
下記のサイトにも詳しく載っています。
http://www.kousotu.com/nintei/
通信制高校に在籍するという方法もあります。

社会人の方の場合も、会社でのいじめからどうやっても抜け出せないのであれば、最終的には辞めるという選択肢が残されているという単純な事実を忘れないで欲しいと思います。

◇◇◇方法4≪ 自分を変えてみる ≫◇◇◇

「最終的には辞めるという選択肢が残されている」と述べましたが、できれば辞めたくないと考える人が殆どでしょう。
学校でいじめを受けている場合、いじめる人以外の皆とは仲良く共に学びたいはずです。
社会人であれば、生活のかかった仕事をそう簡単にやめるわけにいかないのも事実です。
人間は様々な環境からの刺激・変化に対応しながら生きています。
全く刺激がないと人は成長できません。
しかし、自分の手に余るような刺激を受けると潰れてしまいます。
ですから、そのようないじめに遭ったら堂々と他の人に助けを求めるのが最善の方法なのです。
決して一人で悩んではいけません。
それが今までに述べてきた内容です。
この4番目の方法は、そのような対応と並行して、自分が受けているいじめというものを自分が飛躍するためのひとつのきっかけとして利用してしまおう、というものです。
誤解しないでいただきたいのですが、いじめる相手の気に入るように自分を変える、ということでは決してありません。
何かを「乗り越える」という経験をすることで人は進歩していきますが、このいじめをその絶好の機会と考えるわけです。

「自分を変える」とは何かというと、『視点を大きく転換して世界(周囲)を見る』ということです。
有名な話ですがコロンブスは、楕円形の卵が立つわけがないという常識(視点)を大きく転換し、その底を潰すことで卵をテーブルの上に立ててみせました。
先ほど述べたように、「いじめる人は実は弱くて可哀想な人間だ」というのもひとつの視点の転換と言えるでしょう。
また、太っているといっていじめられる人がいるとします。
でも、太っていることを自分自身で何とも思っていないとすれば、他人がそのことをからかったとしてもいじめとは感じないかもしれません。
「太っていて悪いか。あんたに何の関係がある。」と言い返すことができるでしょう。
太っていることを気にしている人がそれを言われることで、いじめという形ができあがっていきます。
でも、それを気にするのは自然なことですから、人の気にしていることをからかったりするのが非人間的で卑劣な行為であることに違いはありません。
ただ、考え方を変えることができれば楽になることは案外あるはずです。

初めのほうで「内面と向き合う」ということにも少し触れましたが、これも別の角度から(視点を変えて)自分自身を見つめ直してみるということです。
私たちは人間関係の中で暮らしていますから、好むと好まざるとに拘らずお互いに影響を与え刺激し合って生きていることになります。
いじめがその関係性の中で起きているということは確かな事実でしょう。
視点を変えて自分と向き合うということは、そんな関係性の一方の側である自分自身を変革してみる、ということにつながります。
ただし、いじめから逃れるためではなく、自分自身を向上させるためという積極的な意図を持って行うことが大事です。
いじめがあろうが無かろうが、自分と向き合うということは無駄なことではありません。
自分を主人公にして文章を作ってみるのも効果があるでしょう。
状況を客観的に確認することになり気持ちの整理ができるので、前向きの考え方につながる可能性があります。
視点を変えて内面と向き合っていると、いじめられている自分の状況を俯瞰して見れるようになるでしょう。
当然の権利なのですが、自分をもっと大事にして良いのだということに気づけるかもしれません。


いじめの形態は様々だろうから一般的な問題として述べることはなかなか難しい。
今回は目に見えぬいじめられている方への手紙のつもりで記してみた。
大した役には立たない内容かもしれないが、エールを送る者がここにも一人いるということを伝えるだけでも何らかの意義があったと思いたい。
今後、いじめについて気のついたことがある毎に心理的側面を重視しながら記していきたいと思っている。
いじめは人間の本質につながっているような気もする。
記しながら考えるというパターンは変わらないだろうが、何かが見えてくるのか徒労に終わるのか。
そのうち、「人はなぜいじめるのか」について考えてみたい。

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2007年06月03日

2. 人はなぜいじめるのか

◇◇◇1≪ 排斥としてのいじめ ≫◇◇◇

いじめの目的には2つあるような気がする。
「排斥するためのいじめ」と「支配するためのいじめ」だ。

「排斥するためのいじめ」は、「異質と感じるもの」の排除欲だろう。
なぜ異質と感じるものを排除しようとするかといえば、それは異質と感じるものによる自らへの影響を怖れるからだろう。
私たちには多かれ少なかれ、他者を相対的存在として認識することによって自己の存立基盤を築こうとする無意識が働いているはずだ。
多少なりとも、他者の存在に照らし合わせて自分というものを確認しようとする部分がある。
だからもっと正確に言えば、異質と感じるものに照らし合わせた場合、それまでの自分というものが覆ってしまう恐怖を覚えるのではないか。
異質な事柄自体もそうだが、それ以上にその異質な事柄を身に纏って平然としている相手の存在を脅威に感じてしまうのだろう。
それゆえ排除しようとする。
一種の防衛機制と言ってもよい。
誰かを攻撃するように見えて、実は自らの身を守るための行為だというところがいじめ問題の根深さだろう。

ところで恐怖というものは、喜怒哀楽や悲しみなどに比べてもっとも古くから人間に存在する感情らしい。
非常に古典的というか原始的な感情で、言われてみれば感情に乏しい、または殆どないと思われるような魚類・爬虫類・鳥類やねずみ、うさぎなどの哺乳類においても恐怖だけは必須の感情として生来的に獲得されているもののようだ。
生きるためには、まず敵から身を守ることが最重要課題であることは否めない。
恐怖は脳の扁桃体という箇所で生み出されるらしいが、ここに損傷を受けると例えば猿の場合、普段は決して近づかない犬や蛇に平気で近づくようになる。
恐怖は身を守るための必須アイテムとして備わっているものらしい。
人類の最初の祖先が地球上に現れた時も、恐怖という感情が備わっていただろうことは想像するに難くない。
地球ができたのは約46億年前とされる。
人類の誕生はネアンデルタール人などに代表される旧人で4〜50万年前、クロマニョン人などの現世人類と呼ばれるもので約20万年ほど前ということになっている。
自分たちとは異質の動物の影に脅えながら生活していたであろうこの頃の人類の脳と同様の恐怖を、いじめる者は無意識的に感じているはずだ。
「いじめられる者」とは「いじめる者にとっての」脅威なのではないだろうか。
つまり、他者の異質さに脅威を覚えるものがいじめをするということかもしれない。
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しかし、異質と感じたとしても脅威を覚える人とそうでない人がいる。
そもそも異質という感覚さえ持たない人もいるはずだ。
この違いはどこからくるだろう。
思えば、「異質」という感覚は「理解できない」「理解しづらい」という認識に基づいていないだろうか。
つまり「何か理解できないから怖いので排斥しようとする」といういじめの形態があるのだと思う。
他者を理解できないのは主に想像力の欠如によるものだろう。
人は、幼い頃にどのような刺激を受けたかにより世界の捉え方が全く違ってくることもある。
想像力に関しても、幼児からの教育環境が重要な鍵を秘めているのではないかという気がしてならない。

ところで、排斥不可能と感じさせる相手に対しては排斥しようという気力は起こらない。
『ある相手に対して何か理解できないという怖れを抱くものが、排斥しようと思えばできそうだという見当をつけた時にいじめという形が出現することがある。』ということになりそうだ。
排斥不可能と思わせるのは、『毅然とした姿勢』を以ってその最大のものとするのが妥当ではないかと私は思う。
無論、理解できないという認識を抱かせないようにすることも効果があることになるだろう。
媚びる必要は全く無いし逆効果になるが、いじめられる側としては相手に安心感を与えておくことも有効だということになると思われる。

◇◇◇2≪ 支配としてのいじめ ≫◇◇◇

排斥ではなく、支配し従わせるためのいじめというものもあるだろう。
支配し従わせたくなる対象とは、すなわち自分自身との共通点を抱えている人ではないかと思う。
どのような共通点か。
それは自分と同様の弱さだろう。
何らかの理不尽な力に対抗しきれずに不当な抑圧を甘受してしまっている者。
その色を無言の内に表現してしまっている者。
そういった者を、容易に支配できる弱者として、いじめる者は敏感に察知するのだろう。
では、支配しようとする目的は何か。
それは自分が過去に受けたいじめ、あるいは抑圧の清算だろう。
自分が受けた理不尽な力は貯めておくだけでは苦しくなってくる。
吐き出す必要が生じるわけだが、いじめる者にとっては自分が被害者だった時と同様の状況設定の下で吐き出されることが望ましい。
「同様の状況」とは、抵抗不可能な情けない弱者に対して一方的で圧倒的な力が行使される、ということ。
かくして、弱者と認定されたものが執拗に狙われ続ける。
いじめるほうにしても、自らの惨めな過去を清算し、一旦は受け入れてしまった負の記憶を帳消しにするための絶好の獲物といった認識を持つはずだ。
過去の自分を癒す手段としてのいじめ。
誰しも、ふと誰かをいじめたくなった経験はあるはずだ。
その時、相手の中に過去の惨めな自分を見出すことは、そう難しいことではないだろう。
いじめる者は、過去のふがいない自分に復讐しているという見方も可能かもしれない。
つまり、ここにも『イラショナルビリーフ(不合理な思い込み)』が存在している。
いじめる者の立場に立ってみよう。
今いじめる私はかつていじめられた者である。
しかし、今いじめている相手はかつて自分がいじめられた相手ではない。
いじめられ、抑圧された記憶を自らのものとして処理できない者が、目の前にいる弱者を過去の自分に見立て、いじめる自分を過去に自分をいじめた相手と重ね合わせる。
そして、自分がされたこと(理不尽な抑圧の行使)を自分が相手にする。
このようにして清算を済ませた気になる。
抑圧された記憶を自らのものとして処理する、とはどういうことだろうか。
それは、過去の事実を事実として認め、自分が対峙すべき相手を見極めること、だろうと思う。
不合理な思い込みから合理的な事実の認識へ、という転換が必要になる。
不合理な思い込みをしてしまいがちなのは、そのほうが楽だからで、つまり自己変革を必要としないからではないかという気がする。
 
posted by hakobulu at 20:06| Comment(7) | TrackBack(1) | いじめの心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月10日

3. いじめの本質

いじめとは、
◎理解できない異質を脅威と感じる者が、排斥可能と判断した他者に対して行なう排斥行為。
◎抑圧の記憶を背負いきれない者が、支配可能と判断した他者に過去の自分を投影し支配することによって過去を清算しようとする行為。
今回はもう一歩踏み込むことができるか試してみたい。

◇◇◇1≪ 排斥の本質 ≫◇◇◇
考えてみれば、全く同じ人間というのはいないわけだから他者というのはみな異質と言っても間違いではないはずだ。
実際、いじめは多数間でも2、3人でも、複数の人間がいさえすれば発生可能だろう。
であるとすれば、「理解できない異質」とは、いじめる人間にとって必然的、あるいは積極的に求められているものなのかもしれない。
つまり、無意識による脅威の捏造である。
目的はアイデンティティの補強ではないだろうか。
自らのアイデンティティを自分だけの力で確立できなくなっている者が、理解できない異質な存在としての他者を捏造することによって、相対的に「自分自身という存在は理解できる」、すなわち間違いの無い存在だという確信を得ようとする。
異質であること、理解できないことが必ずしも排斥という欲求に直結するものではないことからも、そういったいじめる側の内面的要請がいじめの本質と考えることができる。
自力で泳げない者が、他者を足蹴にして浮かび上がろうとするのと似ているかもしれない。
自力で泳げないのは足枷が重すぎるからだ。
足枷がついていることに気づかない場合も多いだろう。
溺れてしまうわけだから、他者を足蹴にすることをやめさせても根本的な解決にはならない。
当人も含めた他の誰かが溺れることになるだろう。

ところで、早い時期からアイデンティティの確立が済んでいると明言できる人は少ないとも言える。
長い時間をかけて自分とじっくり向き合う中で獲得できるものだろう。
いじめる人間にとっての不幸は、それを性急に必要とするということかもしれない。
たとえおざなりであっても一時しのぎであっても、今、自分の立脚できる基盤を確認せずには不安で仕方がないということだ。

「理解できない異質」を短絡的に脅威と認定してしまうのが無意識だとしても、いじめの感情をフィードバックして検討できないのはやはり想像力の欠如というしかない。
排斥したいという思いが自身の足枷の存在ゆえなのだ、と気づくことはそんなに難しいことだろうか。
排斥することによって足枷はますますきつく締まることになる。
想像力があれば、異質は脅威でもなんでもないと知ることができる。
脅威でないものを排斥(足蹴に)しても手応えはないはずだ。
足蹴にした自身の力で自分がより深みにはまることになる。
たとえいじめる側の人間であっても想像力のある者は、このようにして自分のしていることの不合理をいつか悟るときがくるものと思われる。

◇◇◇2≪ 支配の本質 ≫◇◇◇

支配としてのいじめはさらに深刻ではないかという気がする。
意識的にしろそうでないにしろ「抑圧の記憶」は誰しも持っている。
しかし、他者による清算を求めるほどの抑圧はその大きさを成り代わって想像することすら難しい、という立場に私は立ちたい。
暴力などによる肉体的支配も結果的には同じことだと思うが、精神的支配が精神を歪めるのは当然の理屈だろう。
誰であっても、おぎゃあと生まれた時の精神は良くも悪くも無垢のはずだ。
抑圧とは何かといえば、これは刺激の一種と言える。
特に、完全無抵抗時代の赤ん坊から自我の芽生え始める小学校入学頃。
引き続き性的に第二次開花期を迎える思春期前期としての小学校卒業時ぐらいまで。
これらの期間はいってみれば搗き立ての餅みたいなものだから、外界の、有体に言ってしまえば親の影響はすこぶる大きい。
とはいえ、外界の刺激が全くなければ人間として生きることは難しくなるから、抑圧というよりは規制の程度が問題だということになる。
背負いきれるものかそうでないかということだ。
では、それはどのようにして区別されるのかといえば、特に難しいことではないと私は思う。
誤解を怖れずに言えば、親がどんな人間であるのかということよりも(無論、その解釈の範疇に含まれることではあるが)、親が子を物として扱うのか人として扱うのかという一点に掛かっているのではないだろうか。
子供を物として扱うというのは、子供の私物化ということだ。
自分が期待をかけたものとしての、自分が愛した結果としての子供ではなく、子供自身の独立した生を認めることができるかどうかということのように思われる。
この基本線が確立していれば、親の生き方というのは案外重要な要素ではなくなってくるだろうという気がする。
極端に言えば、溺愛だろうが、放任だろうが子供自体の逞しさが温存されていれば問題はないように思う。
支配の本質は、いじめられていた過去の情け無い自分に対する、他者を代用しての復讐ではないだろうか。

◇◇◇3≪ いじめの本質 ≫◇◇◇

総合するといじめとは、
過度の抑圧によって自己アイデンティティの確立を阻害された者が、表面的には排斥という形態をとりながら、短絡的、無意識的に異質を他者の中に捏造することによって、相対的にアイデンティティの確立を目指そうとするものである。
抑圧の程度がさらに強く記憶されている場合は、自分の受けた抑圧を他者に代替的に再現させることで過去の自分に復讐を図ろうとすることも多い。
ということになりそうだ。

そうすると、最初のきっかけとなる抑圧というものが、なぜどのようにして生まれるのか、ということが課題にならざるを得ないが、
このあたりに関しては心理的本質に絡んでくるので、カテゴリを変えて改めて述べてみたい。
いじめに関しては、カテゴリとして独立させ折に触れて考えていきたいと思っている。
 
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2007年07月26日

4、いじめられる側に責任はあるか

この時期になると、いじめに関する悩みをネットで見かける率が高くなるようだ。
いじめられる側にも責任がある、という論がある。
いじめるにはいじめるなりの理由があるのであって決して一方的にいじめる側だけが悪いのではない、といった論調だ。
いじめの本質は排斥または支配だろう。
いじめたい気持ちになるのは理屈ではないからその時点では止められない。
しかし、これは本能的感情であるから、本能に任せて他者を排斥したり支配しようとすることは正当化されるべきではない、という根本的な約束事に気づかなければならない。
これは、複数の人間がいる環境においては絶対的に理解しておかれるべき命題だろう。
なぜなら、それを仮に認めるとすれば本能に基づく行動の全てを容認せざるを得なくなるからだ。
実際問題として、いじめは必要悪とでもいったような認識を持つ人がおそらく未だ多いだろうし、そういった精神性が結果として命の尊厳や人格に対する尊重が平然と無視されるような現実社会を形成している。
本能にのみ従って行動する動物社会においては、尊厳や尊重はおそらく存在していないと思われる。(それらしく見える行動はあるかもしれないが)
いじめとは他者の異質さをもって排斥や支配の対象にできると感じてしまう心理であるが、これはある不可解なものに対する怖れが存在するという理由によって正当化されているのだろう。
その性質にもよるが、いじめる側の主張は一般的に言っておそらく正当防衛といったところだろうと考えられる。
いずれにせよ、このいじめという行為が非常に本能的、すなわち低次元での感情的反応であるということは言えるのであって、しかしそれだからこそ、いじめられる側としては根源的な部分で自分を否定されたように感じて深く傷つくことになるのだと思われる。

何らかの意味である対象が「異質」であるということがいじめの意識的、そして無意識的な起因となっているわけだろう。
しかし、「異質」はあくまで相対的な価値基準であって、絶対的な異質は存在しない。
いじめる人間はいじめられる要素を常に内包しているということだ。
その事実に目を背け当座の感情に突き動かされていじめという行為に走るのは、いかにも愚かだし相手のみならず自らをも貶める、全く不合理な原始的感情の発露と言える。
つまり、いじめられる側に何らかの責任があるかどうかという以前に、いじめという行為そのものが人間という一つの個体にとっていかに退行的で否定されるべき行為であるかを再認識する必要がある。
この意味で、表題の「いじめられる側に責任はあるか」に対する答えは明白だろう。
いじめ自体が理由の如何を問わず絶対的に不合理な行為であるわけだから、いじめられる側に責任があるとか無いとかいうことを疑問の対象にすること自体が不毛なのである。

ただ、「いじめられる側に責任が無い」からといって、いじめられる側が常に正しいということには必ずしもならない。
この場合の「正しい」には様々な意味が含まれるが、基本的には社会的人間関係というものに健全な認識を持っているといったようなことになる。
健全な認識とはこれまた何かといことになるが、最大の要点は自分自身を認めるように他者を認めようとしているだろうか、という点ではないかとい気がする。
くどいようだが、そうでないからといっていじめが正当化されるわけでは無論ない。
誰しも自分が可愛いに決まっているわけで、ただ表現の巧拙と程度の問題にすぎないのだから。
ところで他者を認めるためには、自分自身が認められるという経験を積んでおく必要があるように思われる。
学習していないことを実行するのは何にせよ骨の折れることだろう。(どんな理由であれ)理不尽な行為としていじめには対峙し、自らが解決すべき内面的問題と一緒くたにしてしまわないように注意することが大事だ。
自分に非があるからいじめを受けると考えてしまうと、非というもの(または非と思い込んでいるもの)はそう簡単に解消できるものではないから袋小路に追い詰められてしまう危険性がある。
 
タグ:いじめ
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